Plus ça change, plus c’est la même chose.

変われば変わるほど、もとのまま。

人生

ここのところ、生きている感じがしない。

生きている感じ、というのは、自分のことなど忘れてしまうくらい他のことに夢中になっているときにおぼえるものだろう。自分にも心当たりがないではない。小学生のころなど、時間が経つのも忘れて、漫画を描いたり、野球をしたりしていたから。

こうした、何か自分の心を占めるものが今やなくなってしまった。何をしても、それをしなければならないからしているにすぎない、という気持ちしかもてなくなった。おそらく自分が好きなのであろうと思って入った文学部の勉強も、今では、卒論を書いて卒業しなければならないから仕方なくやっている。

私は就活をしていないけれど、今ごろ面接に臨んでいる同級生たちは「学生時代に何を頑張ったか」などと問われているのだろう。私はこの問いに答えられる自信がない。たしかに、この3年間は決して遊び暮らしていたわけではない。むしろ勉強ばかりしていた方だ。ただ、自分の興味の赴くままに学術的な探究をしたというより、授業で課せられたものをいかに乗り切るかにばかり気を配っていた。むろん履修は自分のほしいままに組めるわけだが、どの授業も最終的には良い成績を取ることに意識が向かい、その内容自体には魅力を感じなくなるということがしばしばだった。だから「勉強を頑張りました」などと胸を張って言えないのだ。「頑張る」にある程度自律性が含まれているとすれば、私の「勉強」はほとんど他律に近いものだったから。

中学、高校、大学と進むにつれて、「何をしたいか」ではなく「何をしなければならないか」で動くように体が慣れきってしまった。それは決して、なさねばならない何かが、したい何かを抑圧するようになったということだけを意味しているのではない。「何をしなければならないか」にしたがって動くあまり、何かをしたいという気持ちすら枯れてしまったのである。

こうなってしまっては、人生が面白くなるはずがない。たとえ社会的に成功しているように見られることがあろうとも、このようなマインドでは、何をしても充足感は生じないだろう。

考え方を変えたらとか、いつか好きなことに巡り会えるはず、という類いのアドバイスについては正直あまり信じていない。無理やりに姿勢を変えることも、根拠のない理想を抱くことも、結局は根本的な問題解決にはなっていない。

さしあたりは、この鬱屈とした人生に耐えることだけが、自分に残された道であるように思う。